渡し舟

 三島町では昭和に入るまで、只見川に橋がなく、川を渡るために渡し舟が主役を演じた。只見川を挟んだ名入~川井、西方~桧原など、各集落の間は渡し舟で行き来した。川を横切って対岸までワイヤーロープが張られ、舟に乗った船頭がワイヤーを手でたぐり寄せながら、乗客を対岸まで運んだ。ワイヤーロープが張られる以前は櫂で舟を漕いだが、水に流されたため舟は川を斜めに渡ったものだという。

 西方地区の舟着場は「舟場」と呼ばれ、船頭小屋もあった。利用者が小屋の見える辺りで乗船の合図に「ホーイ」と呼びかけると、船頭が「ホーイ」と答えた。対岸の桧原地区からは向こう岸の船頭小屋に向かって、「オーイ」と呼びかけ舟を呼んだという。渡し賃は往復で十銭だった。

 ダムができる前の只見川は川幅もそれほど広くなく、渡し場も流れの穏やかな場所が選ばれたため、現在70~80代の住民の中には、泳いで川を渡った者も少なくない。

 昭和16年に宮下駅まで只見線が開通したのに伴い、三島町内では初めて川を渡る鉄道鉄橋ができ、鉄橋を歩いて渡った。しかし、鉄橋には歩道の部分も設けられていたが、幅は狭く、足元から川面がはるか下に見えたため、渡るのは非常に恐ろしかったという。

<奥会津書房『三島町散歩』より>