西方地区


西方地区の成り立ち

 かつて宿場町として栄えた西方集落は、集落の中を北南に真っ直ぐ貫く通り沿いに、家並みが整然と並んでいる。この通りは野沢街道もしくは西方街道と呼ばれた街道の一部で、この街道を北に進むと越後街道の拠点・野沢に、南に進むと只見川を越えて対岸を走る沼田街道(江戸時代の呼称は北越街道)に連絡していた。

 野沢道(西方街道、御蔵入街道、金山谷道)は新潟から奥会津に塩が運ばれる「塩の道」として栄えた。江戸時代の塩の搬送ルートは、会津藩用と幕領「南山御蔵入地」(奥会津・南会津地域)用がそれぞれ厳格に区分され、新潟から阿賀野川を遡って津川にまで運ばれた塩は、陸路をとって野沢に運ばれた後、会津藩用は若松へ、「御蔵入地」用は西方を経由して、只見、田島など各地に運ばれた。野沢道を通った塩は年間6000俵から1万2000俵に及び、倉庫料・保管料だけでも莫大な金額に上り、荷駄賃とともにこの地域の貴重な収入源になっていた。

 現在の三島町を流れる只見川には昭和に入るまで橋がなく、対岸から西方集落に渡るためには渡し舟が主役を演じた。只見川を挟んだ名入~川井、西方~桧原、小山~宮下、高清水~宮下(青方地区)の各集落の間は渡し舟で行き来した。対岸から西方側の「舟場」に上がった旅人は、舟場のある中舟渡地区から傾斜面を切り開いたつま先上がりの街道をたどり、途中の沼田、中田地区を経て西方集落に入った。

 西方集落には宿屋をはじめ、茶や餅を振舞う店も軒をそろえた。交通事情が変わって宿場ではなくなった現在でも、昔の面影は残っている。住民らは、かつて宿屋を営んでいた家を、当時の屋号のまま「家登屋(かどや)」「山中屋」と呼んだり、当時は茶店であった家を「茶屋」と言ったりしている。宿場には機織を営んでいた「機屋」、染物の取り次ぎをしていた「染屋」などもあり、今なおその通称が使われている。

 各家の通りに面した土地の幅は均一で、整然とした宿場風景を形づくっていた。道幅も今と比べて両側に一幅広く、その部分には馬をつないだり、商品を置くなどしていた。通りの片側には、集落の背後にある田を潤した後の水が、サラサラと流れていた。この小川で野菜を洗ったりしていたが、今から五十年ほど前には川の中にたくさんのドジョウが見られた。台所で使い終わった水は小川に捨てず、畑に捨てていたという。

<奥会津書房『三島町散歩』、西方地区地域づくりサポート事業実行委員会『西方の記憶―つなぐ』、三島町『三島町歴史文化基本構想』より>

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