延命地蔵(中田の地蔵様)
石像「延命地蔵」は中田地区に安置されている。ただし、地蔵は1体ではなく完体の地蔵が2体あるほか、上半分の地蔵が1体、頭部だけの地蔵が1体あり、完全・不完全含め合計4体ある。完全体の地蔵も元々はそれぞれ首がとれており、最近になってつなぎ合わされた。それ以前は首がおちるたびに地蔵の胴体にあらためて載せていたともいう。首だけの地蔵は付近の畑の中から耕作中に出てきたもので、元からあった地蔵と合わせて奉られたという。
現在は地蔵を安置するトタンぶきの覆いが設けられているが、当時は露天にさらされていた。地蔵のある場所も現在の位置に元々あったわけではなく、同地区で道路拡張工事があるたびに移転を繰り返し、地区内を転々と移動している。
地蔵の由緒・来歴は一切不明で、地蔵に刻まれている文字も風化が激しく、判読できる状態にはない。ただし、中田地区は只見川対岸の桧原から西方まで続く街道の中間地点にあたり、地蔵は路傍に建てられていたのかもしれない。
また、「延命地蔵」の名称もなじみがなく、現在は通称として「中田の地蔵様」と呼ばれている。付近に住む人の話によると、昭和30年代ぐらいには「首無し地蔵」などと呼ぶこともあったが、「延命地蔵」とは言わなかった。お祭もなく、付近の住民がダンゴ、花を供える程度だった。
昭和57年、道路拡張工事に伴う移転の際、地蔵の首と胴体がつなぎ合わされ、地蔵2体が復元された。ただし、平成11年に再度の拡張工事が行なわれる際、これら2体の地蔵は胴と首が反対につなぎ合わされていることが、地蔵に刻まれた石の文様などから分かり、あらためて正しくつなぎ合わされた。
移転を終えた平成11年10月17日、地蔵の供養が営まれその後、毎年10月17日を祭として祝っている。祭を呼びかけている住民の一人は「由来はわからないが、誰かが何かの目的で供物をあげていたわけだから、供養のためにお祭をしている」と話す。
現在、地蔵はトタンぶきの覆いには旗、幕もあり、地蔵の着物、前掛け、帽子は毎年取り替えている。付近住民は冬期以外はほぼ毎日、生花を供えて供養している。
お祭は回覧を出すわけではなく、口コミで人を呼ぶ。中田地区の3軒のほか沼田地区の全戸に呼びかけるほか、西方地区にも呼びかける。参加者は毎年約30人ほどで、住民の一人は「信仰のある人は来てくださいということで、誰が来て良い悪いということはない」と言っている。参加者も婚姻・葬儀などしきたりがはっきり決まっている行事とは違い、気楽に参加できるお祭と話し、格式ばらない雰囲気で行なわれている。お祭の時間は午前9時から11時ぐらいまでで、地蔵にさい銭を上げて祈り、参加者で飲食・交歓する。
<奥会津書房『三島町散歩』より>